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東京地方裁判所八王子支部 昭和60年(わ)854号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実の要旨は、「被告人は、A(当時一九歳)から強姦されたとして同人から慰謝料名下に金員を強取しようと企て、Bと共謀のうえ、昭和六〇年八月二六日午後七時ころ、東京都日野市〈住所省略〉所在の○○ハイツ一一五号室の右A方居室において、同人に対し、所携の文化包丁を示しながら『これでぶっ殺してやる。落とし前を付けてやる。』『二〇〇万円出せ。』などと語気鋭く申し向け、右包丁でその右肩・頭部・背部・腹部等を刺しあるいは切り付け、竹刀で顔面・胸部等を突きあるいは殴打するなどの暴行を加え、その反抗を抑圧して同人から現金三万一〇〇〇円を強取し、その際右暴行により、同人に対し、入院加療約一か月を要する背部・右肩峰端・後頭部・前頭部・右肘窩・腹部切創、前頭部・右側頭部・額部・頸部・両眼窩等挫傷、両眼球結膜下出血等の傷害を負わせたものである。」というのであり、被告人が右公訴事実記載のような行為を行ったことは、当公判廷で取調べた関係各証拠によりこれを認めることができる。

二  しかしながら、当裁判所は、関係各証拠を検討した結果、被告人は本件犯行当時心神喪失の状態であったと判断するものであって、その理由は以下のとおりである。

1  〈証拠〉を総合すると、以下の事実が認められる。

(一)  被告人の生育歴

(1) 被告人は、昭和三四年四月五日、本籍地において、建築関係の仕事をしている父C(昭和八年一〇月一日生)及びゴルフ場のキャディーをしていた母D(昭和九年七月一〇日生、昭和六二年八月二九日死亡)との間に、長女として出生した。被告人には同胞として弟B(昭和三六年一月一三日生)がおり、二人の仲は非常に良かったようである。なお、被告人の親族の中で精神障害の疑いをもつ者として、父方の祖父Eがおり、同人は精神科医の診察を受けたことがある。

被告人は、昭和五三年三月、東京都八王子市内の××高等学校を卒業後、同市内やその周辺において、工員やスーパー店員などとして稼働したが、先輩と折り合いが悪かったり、「客が一斉に自分を見る」などという理由で辞めていずれも長続きしなかった。

(2) 被告人は、昭和五四年ころから三年間、友人の紹介で知り合ったFと東京都杉並区高円寺において、同棲生活を送ったが、その間一度妊娠中絶したことがあり、その際に医者からもう中絶をしないように忠告されたことから、それ以来、再度妊娠中絶をしたら自己の生命が危険であると思い込むようになった。そして、被告人は、Fとの同棲生活において、絶えずFから暴力を振るわれたあげく、Fがいわゆるサラ金に対する負債を残して所在をくらましてしまったため、一度Fを捜し出して神奈川県津久井郡○○町内の被告人の実家に連れて行き、被告人の両親立会いのもと、Fに「被告人に定期的に金銭を支払う」旨の誓約書を書かせたりしたが、その後再びFが所在不明となり、同棲関係は解消した。

そのころから、被告人は、雑草やちり紙を食べたり、寒中にホースで水をかけて洗髪したり、食事をしたばかりなのに「ご飯食べたかな。」と言うなどの奇行が目立つようになり、昭和五八年八月二三日、東京都八王子市裏高尾町の駒木野病院において、精神科医の診断を受けたが、「性格的な偏りを持った者が非常に不安な困った状態に陥ったために、一時的に不安、興奮状態になっている状態で、人格障害である」旨診断され、特別な治療も受けず、以後精神科医の診断を受けることはなかった。

(3) 被告人は、その後、同市内のスーパーに一時勤務した後、より高い給料を得ようと、昭和六〇年六月二二日から、同市内のスナック「○○」でホステスとして働くようになったが、同店経営者の被告人評は、「働きぶりは全く駄目で、愛想が全くなく、自分が冗談を言うとそれを本気にして自分を馬鹿にして笑ったりし、また、客の立場で物事を考えることができず、化粧室に入ったり出たり顔や髪ばかり気にして、馬鹿じゃないかと思った。」というものであった。そして、被告人は同年八月一日まで同店に勤務した後に退職した。

(4) なお、被告人は、同年六月四日、前記実家付近の路上において、農作業中の男性に対し、口論したうえ、鉄棒で一回殴打して傷害を負わせたという事実で、同月一三日横浜簡易裁判所で罰金七万円に処せられている。

(二)  被害者Aとの交際状況及び犯行に至る経緯

(1) 被告人は、前記スナック「○○」でホステスとして稼働していた昭和六〇年六月下旬ころ、同店に同僚とともに客として訪れた東京都日野市内の印刷会社に勤務するA(昭和四一年三月三日生)と知り合い、同人が二度目に来店した昭和六〇年六月三〇日には意気投合し、同店閉店後に早朝の相模湖を散歩するなどした後、同人が会社の先輩Gと同居している東京都日野市〈住所省略〉所在の○○ハイツ一一五号室(以下、「A宅」という。)において、肉体関係をもった。

(2) その後、被告人は、Aと結婚を前提に交際するようになり、その後もホテルなどで数回肉体関係を結び、同年七月二一日ころ及び同年八月一四日から一六日まで二回、Aに連れられて東京都足立区内で日本そば店を経営するAの両親宅を訪れた。しかし、Aの両親は、年が違い過ぎるなどの理由で二人の結婚には反対で、Aの姉Hも、二回会っただけなのに店や家の名義が誰になっていて土地の価格はいくらぐらいかなどということを聞いてくるなど、被告人に非常識な行動が見られたために、二人の交際に反対し、Aに対し被告人と別れるように忠告したりしていた。

そして、A自身も、被告人と交際しているうち、社交性がなく非常識な態度をとる被告人に対し、次第に結婚する意欲を失っていった。そのような状況下の同月一六日、被告人は、Aの両親宅からの帰途、国鉄(現JR)中央線電車内において中年女性から足を踏まれたことでその女性と口論となった際、Aにこれを制止されたことからAとの間で喧嘩となり、A宅の最寄り駅である豊田駅でAに一人で帰宅されてしまった。そこで、被告人は、その日、A宅に何度か電話をかけてみたが、Aには全く取り合ってもらえなかった。そしてまた、被告人は、その直後ころに一人で出かけた千葉県方面への旅行先からも、A宅に何度か電話をかけてみたが、同居者のGが出るのみであった。

(三)  犯行前後の状況

(1) 被告人は、右旅行から帰宅した後、予定となっていた生理がなかなか始まらないことから、自分が妊娠したのではないかと考えるようになり、前記のとおり、今度中絶手術をしたら自分の生命が危険であると思い込んでいたこともあって、Aとの関係及び生まれた場合の子供のことなどをいろいろ思い悩んでいた。

そして、被告人は、同月二六日、前記実家において、未だに生理が始まらないことから、いよいよ沈んで思い悩んでいた際、たまたま実家にやって来た弟Bから、悩んでいる理由を尋ねられ、「Aから無理矢理関係させられた。何度電話しても出ないし逃げている。子供ができたかもしれない。」などと答えたため、被告人の言を信じたBもこれに憤慨し、その結果同人とともにAから慰謝料を強取することを企て、B所有の普通乗用自動車に乗ってA宅へ向かい、前記公訴事実記載のとおり犯行に及んだ。

(2) 被告人及びBは、犯行後、翌二七日午前四時過ぎころ、本件犯行によって血痕の付着したAの衣類や竹刀等を前記自動車に積み、犯行現場にいたAの同居者であるGに口止めをしたうえで、負傷したAを右自動車に乗せ、前記被告人の実家に向かった。そして、被告人らは、同日午前五時半ころ、右実家に到着し、Bは、直ちにA宅から持ち出した衣類や竹刀等をドラム缶内で燃やすなどした後、東京都府中市内の自宅へ戻った。被告人は、当時新築中であった実家の仮住居の小屋内に布団を敷いてAを寝かせて傷の手当てをしたりしていたが、その後、Aに慰謝料を支払う旨の誓約書を書かせようと考え、自ら「慰謝料として甲野花子(被告人)さんに二〇〇万円払います。」などと下書きしてその文章を考えるなどしたのち、同日夕方、Aに慰謝料の話を持ち掛け、立会人としてAの両親を呼ぶことにし、Aに実家へ電話をかけさせ自分らの所在地を教えさせたことから、警察官が同所に赴き、同日午後八時四〇分、被告人は緊急逮捕された。

以上の各事実が認められる。

2  被告人の責任能力

しかして、右認定事実に、〈証拠〉を併せ考慮し、被告人の本件犯行当時の責任能力について検討する

(一)  被告人が精神分裂病に罹患していること

(1) 仲村鑑定及び内沼鑑定によれば、被告人には、前記認定のとおり、高校卒業後にスーパーで稼働していた際に「客が一斉に自分を見る」というような注察妄想を思わせる理由でスーパーを辞めてしまったり、Fとの同棲生活の後、雑草やちり紙を食べたり、寒中に水で洗髪したりしたなどというような異常行動があったことが認められるほか、被告人に対する問診の結果等から、更に被告人には以下のような異常体験の存在が認められる。

ア 幼少期より、人の耳を噛んだり、人の手を力一杯握り締めて歯ぎしりをする奇行があった。

イ 小学生のころ、パンツを履いても履いた気がせず何度も履き直し、弟から「パンツ屋」というあだ名を付けられたほか、下着や上着の着脱、水道の蛇口やガス栓の開閉、扉の施錠等に関し、疑念がつきまとい、これを何度も確認しなくてはいられない確認強迫観念にとらわれ、あげくは確認を繰り返すあまり水道の蛇口を壊してしまったり、ガス栓の度重なる開閉のためにガス漏れを起こしたのかガス爆発をさせたりまでした。また、不潔恐怖の傾向も著しく、洗濯や手洗いに長時間を要し、部屋の掃除も非常に丹念にして家族が掃除の後に部屋に入ると「またやり直さなくては。」などと言って癇癪を起こすことが再三あった。

ウ 小学校高学年から、尖端恐怖も出現し、刃物等を手に持っていると自分や他人を刺してしまうのではないかと心配した。

エ 中学校に入学して、皆が自分を見ているように感じる注察妄想が始まり、中学二年のころからは、誰かが、自分の周りにいると感じる実体意識性も出現した。

オ 高校一年のころから、男女いろいろな声で「変な人だ。」「馬鹿みたいな人だ。」などという幻聴が聞こえ出し、被害関係妄想も出現している。そして、人との接触を極度に恐れ、人混みを嫌い、登校時間をずらしたり、下校もタクシーを利用したり、父のバイクで父と一緒に帰ったりしたが、一方で父の暴力を嫌って友人宅を泊まり歩くこともあった。

カ Fとの同棲解消後も、強迫及び実体意識性の症状は維持し、幻聴が悪化したうえに幻視も出現したほか、喉が腫れている感じがしたり突然息が苦しくなる呼吸困難発作が出現し、ときには錯乱状態に陥るときもあり、この間、電気コードによる首吊りやガス栓をひねるという方法により二度自殺を企てるが、いずれも失敗に終わっている。なお、喉が腫れている感じ及び呼吸困難の症状で種々の病院の診察を受けているが、特に身体的異常は発見されずに症状のみが持続していた。

(2) 右のような病的異常体験に加えて、被告人の言動には第三者からみて非常識なものが多く、その感情は著しく不安定で激しく変動していることなどからして、被告人の精神は精神医学上も明らかに異常状態であり、精神病的であると考えられる。そして被告人の場合、てんかんを窺わせる脳波所見や臨床的症状が認められず、知能検査や心理検査を総合すると被告人の知能は精神薄弱ほど低くないことなどからいって、精神分裂病と類似の症状を示すてんかんや精神薄弱等の精神病は否定されるが、他方、行動が他人の目などに極度に左右される主体性の他有化の症状や思路にまとまりがない等の精神分裂病によくみられる症状が認められることなどから判断して、被告人は精神分裂病に罹患しており、その発病時期は遅くとも妄想や実体意識性が出現し始めた中学校から高校時代であると考えるのが相当である。被告人の父方家系に精神的に問題があったと疑われる者が存在したという遺伝的負因、更には一方では祖父や父による暴言暴力、他方では祖母や母の我慢忍耐という二局分裂の家庭内環境に被告人が育ったという事情が、その発病に影響を及ぼしていることが窺われる。

そしてまた、被告人においては、注察・被害関係妄想、幻聴、幻視、実体意識性の陽性症状が、右のとおり中学校時代から本件犯行当時を経て現在まで持続的に出現していることに鑑みると、被告人の精神分裂病は、本件犯行前後の時点においても、寛解状態になった事実は窺えない。

なお、被告人が昭和五八年に診察を受けた駒木野病院の精神科医原常勝は、前記のとおり、被告人は人格障害であって精神病ではない旨の診断をしているのであり、また、斧鑑定は、被告人の本件犯行当時の精神状態について、「妊娠と中絶手術による生命の不安、希死念慮等の抑うつ状態にあり、『あいつは狙っているぞ。』『殺されるぞ。』というような声が聞こえる考想化声の異常体験が出没する状態での犯行である」として、原医師と同様に精神分裂病罹患を否定している。しかし、原医師は、被告人をたった一度だけしか診察していないのであり、内沼鑑定によれば、被告人のように複雑な外部事情をかかえ、かつまた錯綜した症状内容を示す患者に一回の診察で確定的診断を下すことは不可能とのことであり、また、斧鑑定は、鑑定期間が比較的短く、その間に問診一回、神経学的診察一回を行ったのみであって全体の情報量が相対的に乏しく、Fと同棲する以前に被告人に認められた異常体験は問診の結果に表れなかったためか鑑定の基礎にされていないなどの事情からすれば、原医師や斧鑑定が被告人の精神分裂病罹患を否定したことは、右認定に影響を及ぼさないものと考えられる。

(3) また、検察官は、Fとの同棲後の被告人の異常行動は、同棲相手からサラ金に対する負債を残して逃げられるなどの精神的打撃を受けて精神に一時的な変調をきたしたからに過ぎず、その根拠として、被告人が駒木野病院受診後、特別な治療も受けずにスーパー店員やスナックホステスとして稼働し得るまでになったほか、運転免許を取得して自家用車を乗り回すなど一応社会に適応した生活を送ってこれたこと、また、昭和六〇年六月の傷害事件は、被告人の易怒・攻撃的性格やすぐに凶器を手にする行動傾向を示すものに過ぎないこと、Aとの交際時の被告人の言動も第三者からみれば取るに足らないことであると考えられることなどから被告人に病的な異常さは認められないとし、さらに、被告人が犯行前にBに対して話したAとの交際状況や被告人の本件犯行に関する供述等に、自己に都合の悪い不利な事実を隠している部分が認められる点を指摘して、精神分裂病の患者は物事を隠蔽し秘密を保持する能力がない筈であるとし、被告人が精神分裂病に罹患しているということに疑問を提起している。しかし、仲村鑑定及び内沼鑑定によれば、精神分裂病患者は常に異常行動を取っているという訳ではなく、社会に適応して生活している者も多数存在しているのであり、通常の社会生活を営むことと精神分裂病に罹患していることとは特に矛盾するものではなく、また、被告人の場合はスナック経営者の供述からすれば必ずしもホステスとして十分に勤まっていたという訳ではなく、さらに、被告人が不利な事実を隠した点も、仲村鑑定が被告人の責任回避の態度を指摘しながら被告人が精神分裂病に罹患していると結論付けていることや内沼鑑定が精神分裂病患者が病気を隠しながら生活していることがあり得るとしていることからしても、物事を隠蔽し秘密を保持することと精神分裂病に罹患していることとは矛盾しないというべきである。

(二)  被告人の本件犯行時の精神状態

(1) 仲村鑑定は、問診の結果等から、被告人には細部の点はともかくとして、犯行時の概略的記憶は保たれているようであるとし、犯行自体も精神分裂病による妄想等に直接支配されてなされたものではないとする。これに対し、内沼鑑定は、問診で被告人が「知らない。」「覚えていない。」「はっきりしない。」「かも知れない。」などと答えたことが多かったことからか、被告人には犯行時の健忘が認められ、竹刀を振り回したころより、完全に主体性を失って錯乱または昏迷ないし両者の混合状態に陥ったことは疑う余地がないとする。

そこで検討するに、犯行時の記憶に関しては、被告人の供述調書は、その内容に前後矛盾している部分も存しており、捜査官の誘導も窺われはするが、全体的に見て比較的具体的な供述がなされており、特に被告人が調書の内容に対する訂正を申し立てている点や捜査当初の段階での被告人の供述が後になって真実であると判明したこともあったという事情などもあり、また、仲村鑑定や事件記録を見ずに白紙の状態で臨んだ斧鑑定における問診での被告人の供述をみても、少なくとも被告人には犯行時の概略的記憶はあったものと認めるのが相当である。また、被告人の行動には個々的には異常な面も存するが、本件犯行前後のすべてにわたって終始了解不能な異常行動を続けていた訳ではなく、被害者の言葉等に対する反応状況などからしても、犯行時に幻聴や実体意識性等の異常体験の出現が疑われはするものの、犯行自体が妄想に支配されたものであったとは認められない。

(2) ところで、内沼鑑定は、被告人の精神分裂病は重篤な強迫神経症症状を伴うものであるとし、「被告人は物事を何度も確認して気持ちがすっきりしないと、何事も一歩も先に進めない重篤な強迫的心性の持主」であると診断しているのであるが、その根拠として、前述した小学校時代からの各種の強迫観念に基づく行為に加えて、Fと同棲生活を送っていた際に、さんざん暴力を振るわれながら三年もの期間同棲を続けていた理由について、問診で被告人が、「相手が好きなのかわからない。何故暴力を振るうのかと、そればかりを考えてきた。」と述べたことや、その他被告人が問診で、「度重なる化粧直しのために顔が真っ黒けの化物みたいになったことがあり、そのために化粧の順序を紙に書いて、これは終わった、あれは終わったといちいちチェックしないと駄目なんですよ。」と述べたことに関連し、スナック「○○」の経営者が、馬鹿じゃないかと思うほど被告人が顔や髪ばかり気にしていたことなどをも併せて考慮しているのであり、内沼鑑定の右診断は、当裁判所も首肯するところである。

してみると、被告人は、前記のとおり、本件犯行前ころからは予定されていた生理が始まらず、自分が妊娠したのではないかとの疑問を抱いていたのであり、今度妊娠中絶をしたら自己の生命が危険であると思い込んでいたことなどもあって、このことで深く思い悩んでいたもので、このとき、被告人は精神分裂病に伴う強迫神経症症状としての「妊娠恐怖ないし中絶恐怖」という強迫観念にとらわれていたものと推察され、被告人が右のとおり重篤な強迫的心性の持主であることを考慮すれば、この強迫観念が当時の被告人の頭の中を満たし、まさに被告人はこの問題を解決しなければ一歩も先へ進めないというような状態にあったことは想像するに難くないところである(内沼鑑定によれば、この強迫観念はもはや妄想的確信に近いところの優格観念であるとする。)。そして、その後に敢行された被告人の本件犯行は、この問題を解決すべき強迫観念に基づく行為として、被告人にとって「妊娠恐怖ないし中絶恐怖」という強迫観念を生じさせた元凶であるAに対して攻撃を加えるという形で現れたものと認めることができる。この点、本件犯行の際、被告人がAに対し、さかんに「子供ができたんだ。」「医者に子供をおろしたら私の命が危ないと言われたんだ。どうしてくれる。」「この子供を産むよ。」「この子供をどうする。」などと追及し、これに対しAが「自分で育てる。」と答えるや、今度は「産んだら私の命が危ないんだよ。」などと矛盾したことを言っているのはこの証左であると考えられる。

このように、本件犯行を含めた被告人の当時の行為は、精神分裂病による妄想に支配されてなされたものとはいえないが、精神分裂病に伴う妄想にも匹敵するほどの重篤な強迫観念にとらわれてなされたものと認められる。そして、被告人の強迫観念に基づく行為は、前記のとおり、その執拗性や貫徹性等の点において、一般通常人には了解不可能な常軌を逸したものであって、被告人がこの強迫観念にとらわれている状態のときには、周囲の状況がどのようになっているか、行おうとしている行為が果たして合理的なものかなどという考慮判断は全くなされておらず、また、行為が社会的に是認されるものかどうかということも、被告人にとっては意味をなさず、被告人としてはまさに強迫的に行為に出ざるを得ないが故にこれに及んだものと考えられる。即ち、このような状態のもとでは、被告人にはもはや行為の選択の自由がなかったといわざるを得ない。

以上から、被告人は、本件犯行当時、是非善悪を弁別し、その弁別に従って自己の行為を統制する能力を全く失っていたというべきである。

(3) なお、検察官は、上記に検討した点以外に、次の各点を指摘して、被告人は本件犯行当時心神喪失状態ではなかった旨を主張しているので、更にそれらの点について検討を加える。

即ち、結婚を望んでいた相手と喧嘩別れをして抑うつ気分になり、その相手を逆恨みして暴行を加えたうえ慰謝料を取ろうと考えるのは何ら了解不可能なことではなく、本件犯行には了解可能な動機が存在すると考えられること、被告人はBとともにA宅に向かう際に、Bに対しAが剣道三段であることを教えているが、これは、これから起こり得る事態を的確に予測して現実を吟味したうえでBに与えた助言であって、当時被告人には的確な現実吟味があったこと、犯行時に竹刀や包丁を持ち出した点もAに対する攻撃心の表れないしBへの加勢行為として何ら異常な行動ではないこと、被告人は、被告人の子供の問題の追及に対しAが「子供は自分が育てる。」旨を答えると、即座に「産んだら私の命が危ない。」などと反駁し、Bの二〇〇万円の要求に対しAが「そんな大金はない。」旨を答えると、直ちに「そば屋を売れ。」などと追及しており、あくまでも慰謝料を取ろうとの的確な判断のもとに行動していると認められること、Aに誓約書を書かせることを発案したのは被告人であるが、心神喪失状態ではそもそもそのような発想が出てくる筈がないことなどを理由に、結局本件犯行当時、被告人の行動に了解不能な点は見出し得ず、被告人は、本件犯行当時、心神喪失の状態ではなかったというのである。なるほど、確かに検察官の指摘するような事実は認められ、その個々の事実についてそれ自体を抽出して、個別的に考察すれば検察官の主張するような解釈も一つの見方といえないことはない。

しかしながら、仲村鑑定及び内沼鑑定によれば、錯乱あるいは昏迷状態に陥っている場合を除いては、精神分裂病患者であっても、個々的な点では正常な判断に基づいて行為をしているとみられる場合が多いことを認めており、被告人が犯行の中で一見正常な判断をなしたかのような状況のもとで行動しているとみられる部分が個々的に認められるというだけでは、被告人の責任能力を肯定するのに不十分であると考えられる。そして、本件における被告人の犯行前後の行動をみてみると、右の検察官が指摘している各事実のほか、被告人がA宅でAの帰宅を待つ間にテーブルを蹴ってひっくり返したことや犯行後にAを実家に連れて行きAに執拗に誓約書を書かせようとしたことなどを含め、被告人の各行動は、確かに全く了解不能であるとまではいい切れないが、同時にまた十分納得できる行動であるともいえないのであり、被告人の行動には絶えず多少「おかしい」部分が残っているのである。ところが、先に検討したとおり、本件の場合、被告人の精神分裂病に伴う強迫観念というフィルターを通して、被告人の行動は強迫観念に基づく行為を貫徹させるためのものであると考えてみると、この多少「おかしい」と思える部分を含め、被告人の犯行前後の行動全体について統一的な把握が可能となり、すべてに十分納得のいく自然な説明ができるのである。誓約書の点も、被告人は、以前の同棲相手のFがサラ金に対する負債を残して所在をくらました際(このころは、被告人が雑草やちり紙を食べるなどの異常行動があったころである。)にも、Fを捜し出して誓約書を書かせていることから考えても、被告人にとっては、誓約書を書かせることが強迫観念に基づく行為としての問題解決の唯一の方法であると思い込んでいるふしも窺われ、被告人が誓約書を執拗に書かせたことは、むしろ被告人が犯行当時強迫観念にとらわれていたことを示すものであると考えられる。よって、被告人の行動についての検察官の右解釈は、個々的な面にのみ着目し、全体的考察を欠いた点において正鵠を得たものとはいえず、被告人に責任能力を認める根拠とは考えられない。

また、検察官は、内沼鑑定が「被告人は、竹刀を振り回したころより主体性を完全に失ったのであり、それ以前の段階ではわずかながら主体性が認められる」としている点をとらえて、竹刀を振り回した時点以前のBとの共謀に責任を負わせるべきであるとの指摘をしているが、たとえBとの共謀の時点でわずかながら被告人に主体性が認められるとしても、前述したとおり、被告人は、既にそれ以前の時点から、精神分裂病に伴う強迫観念にとらわれて行動していたのであるから、Bとの共謀行為もその延長線上での出来事としてとらえなければならず、結局これについても被告人の責任を認めることはできないというべきである。

したがって、検察官の主張は採用しない。

以上により、被告人の本件行為は、心神喪失者の行為として罪とならないから、刑事訴訟法三三六条前段により無罪の言渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 長崎裕次 裁判官 山本武久 裁判官 成川洋司)

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